花巻城周辺入門

 
 花巻は藤原氏、稗貫氏の時代を経て、1591年に南部氏の領地と
なり、南部氏によって伊達藩との境を守る花巻城が整備され、
その城下町として発展してきた町。

  まなび学園周辺(花城町~城内):旧花巻病院跡地
   まなび学園、旧花巻病院、花巻城跡地、鳥谷ヶ碕神社、
   花巻小学校、花巻市役
   
   花城町~ 城内 
 
1:花巻城跡
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花巻城
 
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     本丸西御門  

花巻城
 伊達を見据えた南部領南端の城。
  藩境の警備と和賀・稗貫二郡の管理のための近世城館。
 城主:北家、三戸南部家
 年代:1591年(天正19)~1873年(明治6)

<花巻城の歴史>
  ◆中世鳥谷ヶ崎城
  前九年の役(1051~62年)の際、安倍頼時が築いた居城(城柵)があったと伝えられ
  前九年の役後に東北地方を統治した清原武則・武貞親子が居住したという伝説がある。
  12世紀から鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、平泉藤原氏滅亡(1189年)後、稗貫氏(源氏の御家人)
  が稗貫地域を四百年間支配し、鳥谷ヶ城は稗貫氏の居城だったと言われる。
  ◆南部氏の隆盛
  1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに、稗貫氏や和賀氏ら参陣しなかったことから、
  秀吉の「奥州仕置」により所領没収され、旧領地は南部信直(盛岡藩藩祖・南部氏26
  代当主・南部家中興の祖)の所領となり、鳥谷ヶ城は花巻城に改称された。
  ◆花巻城の整備:北信愛と南部政直
  1591年、南部信直は重臣の北秀愛を花巻城代(八千石)にした。秀愛が若くして病死
  (1998年)して父の北信愛(松斉)が2代目城代を継ぎ、文武を尊重し市場を設ける
  まちづくりを進め、「花巻開町の祖」と呼ばれている。全国的に有名な「花巻祭り」の
  原型である観音まつりを始めたとされる。
  信愛死後、南部政直(南部藩主・利長の第二子)が(最初で最後の)花巻城主になり
  城と城下町の改修整備を行い、1821年に要害としての花巻が完成する。 
  ◆城代統治の時代~明治時代
  
政直急死(毒殺?)後は、政直の家老や盛岡直参の高禄武士が郡代に起用される。
  明治元年の戊辰戦争の結果、花巻城は新政府の管理下に入り、明治5年廃城となり
  明治6年払い下げになる。

<花巻城に係わる先人たち>
 ◆北秀愛(ひでちか)?~1598年
   北信愛の息子。南部家の家臣。
   1591年奥羽再仕置の後、稗貫・和賀・志和は南部氏の所領となり、浅野長政の推薦
   により、秀愛が稗貫・和賀二郡(8000石)の初代城代(郡代)になる。
   鳥谷ヶ城を花巻城に改め、初代城代になる。鳥谷ヶ崎城の改修と「花巻城」への改名と
   城下町の整備(四日町を開町)をしたが若くして亡くなる。

 北信愛(のぶちか)(北松斉)1523~1613年
  花巻開町の祖(恩人)」南部家の家臣・長老(長生き91歳)
  花巻城の大改修城下町の形成(まちづくり)に尽力する
  「花巻祭りは松斎祭り」
  中世から三戸南部家に忠誠を尽くした家臣北家の当主
  主家・南部氏から厚い信頼を受け、花巻城代を務めた。
      令和5(2023)年は生誕500年
  秀愛の父。南部家4代(晴政-晴継-信直-利直)に渡り、忠臣として仕える
  家老として、南部家の家政や外交の中心を担った。
  秀愛の病死後(1598年)、70代半ばで花巻城の2代目郡代(城代)を
  16年間つとめる。花巻の城下町形成(花巻三町:四日町、川口町、一日町)
  と花巻城改修に尽力する。
  しかし、松斉の死で花巻北家は途絶え、8000石知行地は藩に没収される。
  原敬が編さん指示した「南部史要」(明治44年)には「花巻祭りは松斉なり」
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初代 錦木の墓碑(初代二所ノ関)西御門の横
 
<花巻ゆかりの盛岡藩主>
 ◆南部政直(まさなお)1599~1624年(令和6年は没後400年)
   花巻城3百年の歴史上、最初で最後の(二万石の)花巻城主 
   花巻城の完成者 
謎の毒殺? 
   盛岡藩初代藩主・南部利直の次男(庶子)(信直の孫)
   1613年北松斉没後、14歳の時花巻城主に。
   花巻城3百年の歴史上、ただ一人、最初で最後の花巻城主
  (2万石)になった領主。北信愛の計画を引き継ぎ、城改修とまちづくり
   の完成を導く。
   伊達政宗の陰謀により、25歳の若さで毒殺?(岩崎城代・柏山伊勢と
   と伴に)された。南部と伊達の争いの犠牲者であった。
        ※政直に男子がいなかったため、2万石の花巻城主は1代で終わり、以後
    は城代・郡代制となった。
  
 ◆南部信直 1546年~1599
  南部氏中興の祖 盛岡藩藩祖 
   南部氏26代当主。
   南部家領内に九戸政実が一領国を形成し内紛状態だった。
   九戸勢は勢力が強く、苦戦していた信直は自力での討伐を諦め、
   秀吉に使者を送り、豊臣勢の援軍が九戸家を滅ぼし、信直の南部藩
   における統一政権が確立した。

 ◆九戸政実 1536年~1591
   豊臣秀吉天下統一最後の相手。南部家の家臣。九戸城主。
   「九戸政実の乱」1591年
   南部家当主の南部信直と奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱
   豊臣援軍に降伏後、斬首される。

 室町時代後期~戦国時代~明治時代
 三戸南部氏ー盛岡藩主 の主な系図
(盛岡、花巻関連)

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2:鳥谷ヶ碕神社
 古くから「お三社さん」の名で親しまれている。
 3つの神社(鳥谷ヶ碕神社と八幡神社・稲荷神社)が合祀して三社となる。
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                            境内に建つ谷村貞治像

 八幡神社は、前九年の役(1051年~1062)、源頼義・義家親子が現在の
 吹張町に勧請。
 稗貫氏が鳥谷ヶ崎城に1313年奉還。1536年、城内の3社を合祀し、
 「鳥谷碕座三柱神社」に改称する。明治時代末に「鳥谷ヶ碕神社」に改称。
 境内には、宮沢賢治歌碑、高村光太郎誌碑、谷村貞治像がある。

<鳥谷ヶ碕神社に係わる先人たち>
 ◆谷村貞治  明治29(1896)年~昭和43(1968)年
  新興製作所の創始者、谷村学院高校(現・花巻東高校)創設者。
  現・石鳥谷町に生まれる。実業家。漢字テレプリンターを開発し 
 「みちのく電算王」と呼ばれる。
  10年近い研究の末、日本初の「仮名文字電信機」を発明。
  一連の電信機器の技術革新は日本の高度経済成長のてこになった。
  テレプリンターの専門オペレーター養成のため、花巻の工場隣接地に
  谷村学園を設立。参議院議員を2期務める。
   
 ◆新渡戸維民(傳蔵)(これたみ) 1769年~1845
   新渡戸稲造の曽祖父 兵法学者
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                     新渡戸家系図                       

   維民は剣や槍を好み、若い頃は兵法を学ぶため、花巻から盛岡まで毎日
      通っていたという。藩の改革案(花巻城廃止)に反対し、藩主の
      逆鱗に触れ、下北半島の川内に左遷された。
   息子の新渡戸傳(27歳)は、川内で商人となり17年間材木商をして、
      大きな利益を上げて成功し、新渡戸家は再び花巻に帰郷する
    父・維民の時50石以下の新渡戸家は、傳のときは三本木原開拓
    (十和田)などにより177石にまでなる。

   新渡戸維民(傳蔵屋敷跡地)
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3:揆奮場(きふんじょう)
 江戸時代末期に、花巻城士の文武両道の素養を高めるため、藩学校を
  松川滋安(しげやす)が設立した。
「文を奨(すす)め武を奮(ふる)う」という言葉から”揆奮場”と名付けた
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  花巻小学校
  ◆松川滋安
   藩学校揆奮場の創設者”  1812年(文化9年)~1875年(明治8年)
   花巻市城内に生まれる。幼い頃から勉学に励んでいた滋安は学問優秀で、
   花巻城下で教育に携わった後、貧しい暮らしの中で学校を建てるための
   財産を蓄え、花巻に藩学校「揆奮場」を設立した。
    この時の紀文と書物を印刷した木製活版印刷機が花巻市文化財に指定
   されている。花巻地蔵寺に葬られている。   
 
4:武徳殿
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 昭和52(1977)年 県内初の本格的各技場として開館。柔剣道場・弓道場。
 
 ◆伊藤祐武美 明治34(1901)年~平成2(1900)年
   全国一の議長歴。第一号名誉市民(旧・花巻市)。実業家
   昭和17(1942)年に花巻町議会議員に初当選以来、逝去されるまで
  48年在職さえ、41年間を(町議・市議)議長を務め、地方自治の
  発展に活躍した。
   武術師範の家柄の伊藤一族は、武道の発展と後継者育成に尽力し、
  祐武美氏は、武徳殿建設にあたり工事総額の半額以上を寄付している。
伊藤祐武美

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             若葉町のぎんどろ公園にある顕彰碑


img_20240627-170631.jpg  鶴陰碑(かくいんひ)
江戸~明治の花巻出身で功績のあった194人の名前を記した石碑。
明治24(1891)年 花巻城三の丸に設置。現在は花巻博物館内。
城跡にレプリカが置かれている
img_20240627-170747.jpg◆小原忠次郎(東籬 とうり)           
 花巻の図書館の創始者 教師 書の大家
 嘉永5(1852)年~明治36(1903)年   
 明治時代の教師で書道の大家。  
 幼少期より花巻城の揆奮場(きふんじょう) などで学問を修め、花巻小学校の教師など、学校の教師や校長として、郷土の教育創 立の教育の向上に努めている。書の大家として鶴陰碑など先人 の顕彰碑や路傍石碑に筆をいれている。
 教師のかたわら、文明開 化期にふさわしい多くの公共事業を起こしている。
 花巻図書館の前身「豊水社」を創立、花巻リンゴ会社、花巻農政社、公共事業推進のための同志社等を設立し指導者となる。
 
5:三の丸公園
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               延寿寺館音堂

   佐藤昌介 石碑
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6:まなび学園:生涯学園都市会館(花巻高等女学校跡)
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  平成4(1992)年~   

◆藤原嘉藤治(かとうじ) 1896年~1977
  花巻高等女学校の音楽教師。
  嘉籐治と出会い宮沢賢治は音楽に関心を深め、親交を深める。
  賢治の仲人で、ウエイトレスの女性と結婚している。
  戦後は紫波町の東根山に開拓農民として入植する。
  農業指導者になったのは賢治の影響とみられる。
  賢治のチェロを嘉籐治が保管していたため、花巻空襲を免れ、
  賢治記念館の展示されている。

◆宮沢トシ
  第2回卒業生  宮沢賢治の妹
  卒業後、日本女子大学進学後、大正9(1920)年9月から
  1年間母校で教鞭をとった。

7:旧花巻病院跡地(稗貫農学校跡地)
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        病院跡地(向こう側は花巻小学校)
  
 佐藤隆房(たかふさ) 1890年~1981
   栃木県生まれ。現在の桜町1丁目に「佐藤外科耳鼻科医院」を開業した。
   稗貫農学校跡地に花巻で初めての総合的病院を設立。看護職員の養成など
  女性教育の道を広げ、花巻の先進医療化に寄与する。町政・市政・県政に多大な
  貢献をし、芸術や文化に深い理解を示し、宮沢賢治、高村光太郎などの文人とも
  広く交流を持った。

 ◆宮沢賢治 1896年~1933
   詩人・童話作家。
   豊沢町生まれ。雨ニモマケズ、風の又三郎、銀河鉄道の夜、やまなし、など
  多くの詩や童話をつくった。
   花巻農学校の教師や農業指導者としても活躍。