岩手の歴史入門
~ざっくり岩手の歴史~
| <古代~奈良時代> 陸奥国:東北地方のうち、律令国家日本に編入させた地域。 現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県の北東部にあたる。 服従しない北方の蝦夷(えみし)と接する。 ![]() 鎌倉時代~1868年までの陸奥国 蝦夷:(えみし)古代東北に住む大和朝廷に服従しなかった人々。 律令国家に服従しない未征服地域の人々。 抵抗は10世紀前(平安時代前半)まで続く 俘囚:(ふしゅう)蝦夷が国家政府に帰順、同化した人々。 しばしば反乱を起こし、東北に国家軍事問題を起こした。 多賀城:(宮城県多賀城市)724年:令和6年は創建1300年。 奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため724年に設置。 奈良時代は平城京を中心に、南の大宰府、北の多賀城(陸奥国府兼鎮守府) が拠点となり、8世紀始め~11世紀中頃の、東北地方の政治・軍事・ 文化の中心地。陸奥国の国府(国の役所)と鎮守府が置かれる。 802年、鎮守府が胆沢城に移転後は国府のみになる(平安時代の陸奥国府) 伊治城(これはる、宮城県栗原郡) 767年設置された城柵 8世紀半ごろには、桃生城(ものう、石巻市)などの城や城柵が築かれる。 胆沢が攻略目標と思われる。 鎮守府 蝦夷鎮圧のため陸奥国に置かれた軍政府。 奈良時代初期に多賀城に設置。 802年に胆沢城、その後は平泉に移されるが、1189年奥州合戦(奥州藤原氏 の滅亡)により廃絶した。 <平安時代> 坂上田村麻呂(758~811) 桓武天皇のとき、征夷大将軍となり、蝦夷の首領阿弖流為(アテルイ) を降伏させ、悪路王(アテルイと同一人物か?)を征伐する。 802年胆沢城を築き、鎮守府を多賀城から移した。 城柵建設中に蝦夷の首長のアテルイとモレが降伏(のちに斬首)し、 北上川領域は朝廷が支配し、蝦夷たちは全国各地に強制移住させられ 岩手県域は律令国家に組み入れられていく。 ![]() 東北地方の支配 胆沢城(水沢)802~1083 坂上田村麻呂が設置。鎮守府を多賀城から北進し、今の岩手県あたりを 統治する軍事・行政拠点になる。 志波城(盛岡市)803~811 陸奥国最北の城柵。坂上田村麻呂がアテルイを降伏させた後に造営し、 蝦夷征討がほぼ達成された。(嵯峨天皇の弘仁年間) 8世紀初頭、志波三郡(和我・稗縫・斯波)胆沢三郡(胆沢・江刺・磐井)が成立 して、律制六郡が成立する。 徳丹城(矢巾町)811年築城 律令制最後の城策 志波城は雫石川の氾濫による水害が多く、代替として移転・造営した最小規模 の城柵。志波城の政治機能を引き継ぐ。 ![]() 9世紀 10世紀 奥六郡 10世紀になると、郡が再編され、在地首長を介した間接支配から、朝廷派遣の 貴族による直接支配に移行。 岩手、志和、稗貫、和賀、江刺、伊沢(胆沢)の6郡の総称 (陸奥北部・衣川以北) 11世紀ごろに豪族安倍氏が奥六部を基盤にして勢力築く。
安倍氏 平安時代中期(11世紀ころ)奥六郡に勢力張った陸奥の土豪・俘囚の長。 前九年合戦(1051~62)に源・清原連合に滅ぶ。 清原氏 出羽山北(秋田・横手)の豪族・俘囚。 清原武則は前九年合戦で源氏を支援し、鎮守府将軍になる。 後三年合戦(1083~87)に源氏・藤原連合に滅ぶ。 ![]() ![]() 11世紀の勢力図 ![]() 安倍・清原・奥州藤原氏の関係系図 前九年の役(1051~62) 安倍頼時が起こした反乱。朝廷の命により源頼義・義家親子が清原武則の 応援を得て安倍氏を滅ぼす。清原氏が東北を支配する勢力になる。 後三年の役(1083~87) 前九年の役後、権勢をふるっていた清原氏の内紛(相続争い)。 源義家と藤原清衡が清原氏を滅ぼす。 奥州は藤原清衡のものとなり、奥州藤原氏は百年栄華を極める。 奥州藤原氏 後三年の役では、奥州の豪族藤原氏は源義家を助けて戦い、平泉を中心に 栄えた。 藤原氏は、清衡・基衡・秀衡・泰衡の4代にわたり、金や馬や北方の特産 品で繁栄した。源頼朝と対立した義経は(頼朝のライバルといえる)藤原氏 を頼って平泉に逃れたが、泰衡によって殺され、同時に頼朝によって、奥州 藤原氏も滅ぼされる。(1189年 奥州平定) <鎌倉時代> 奥州惣奉行 奥州平定(1189年)後、出羽・奥州を勢力圏とした源頼朝は守護を置かず、 奥羽を鎌倉幕府の直接支配下に置き、奥州総奉行を設置する。 葛西清重が派遣され、奥州藤原氏に代わる平泉の支配者となる。 のちに伊沢家景が任命され、葛西氏と伊沢氏(のちの留守氏)が世襲して いく。葛西氏は平泉(軍事長官)、伊沢氏(留守氏)は多賀城周辺(民生長 官)の支配を進めたと言われる。 葛西氏は陸奥国で勢力を持ち繁栄を極めるが、豊臣秀吉の小田原攻めに 従わず(400年間の葛西氏の奥州の中世は終わり)葛西氏は滅亡した。 ![]() 鎌倉幕府下の奥州 関東の御家人が地頭として各地を支配した。 執権の北条氏に、糠部(ぬかのぶ)郡や津軽四郡が与えられ、 幕府内でも奥羽でも支配力を強めていく。 岩手県域の多くは葛西氏と北条氏の所領となる。 <室町時代>
奥州探題(奥州管領) 大崎氏 奥州の行政・軍事の統轄職 南北朝が統一(1400年)し、室町幕府は大崎詮持(あきもち)を奥州 探題に命じる。以後(斯波氏一族の)大崎氏が世襲する。 次に続く3有力氏は、南部、葛西、伊達氏。その下は留守氏。さらに下に 和賀氏、稗貫氏が続く。 斯波氏(高水寺城 紫波)は勢力つけて「奥州の大崎、斯波両所」と並び 称される。 大崎氏は秀吉に臣従せず、奥州仕置により滅亡し奥州探題制は終焉した。 羽州探題 出羽の軍事・民政統轄機関。 14世紀中ごろ奥州探題から分立して設置。 斯波(最上)兼頼(最上氏初代)が任じられ以後世襲(最上斯波氏) ![]() ![]() 戦国時代の勢力図 奥州平定 1590年 小田原征服後、東北各地の一揆から、91年全国平定まで 奥羽仕置(1590年) 小田原北条氏滅亡後、豊臣秀吉が小田原攻めに参陣しなかった者の領地 を没収して諸将に再半分した。 葛西晴信、大崎義隆、和賀義忠、稗貫弘忠らは参陣しなかったため所領を 没収される。 伊達政宗は減封、後に移封。南部信直、津軽為信、最上義光は所領安堵。 旧葛西・大崎領に木村氏、鳥谷碕城には浅野長吉(のち長政)が入城し 稗貫氏の領地は秀吉の直轄領となる。 葛西大崎一揆(1590年) 改易させられた葛西氏・大崎氏による新領主(木村吉清・清久父子)に 対する反乱 和賀・稗貫一揆(1590年) 和賀義忠・稗貫弘忠が鳥谷碕城を攻囲したが、南部直信の援軍が駆けつけ 一揆勢を退散させる。 九戸合戦(1591年) 南部氏一族の九戸政実が、奥羽仕置を行う豊臣政権や当主の南部信直に 対して起こした反乱。奥羽仕置軍が勝利し、政実は処刑される。 信直は三戸から九戸城へ居を移し「福岡城」へ改称する。 奥羽再仕置(1591年) 奥羽仕置の強行への各地の反発・一揆を鎮圧し豊臣政権が確立。 稗貫・和賀・志和は南部氏の所領になる。伊達領と接する要所の拠点として 鳥谷崎城を改修し「花巻城」と改め、南部家の重臣・北秀愛が浅野長政の 推薦により初代城代(稗貫・和賀二郡8000石)になる。 岩崎一揆(1600年)=花巻城の夜討ち 関ヶ原の戦いに南部氏(南部利直)が出兵した”手薄状態”をついて、 和賀氏(和賀忠親)が再び一揆を起こし、北松斉(城代)の花巻城を奇襲。 藩主・南部利直の帰国が許され、援軍によって一揆軍は鎮圧される。 和賀氏へは援助が伊達政宗のたくらみ(策略)があったと言れ、征夷大将軍 の徳川家康の知るところとなり、政宗は注意を受けている。 ![]() 戦国時代の主な城と領地 ![]() 奥羽仕置後の主な城と領地 ![]() 南部信直所領図 1590年 小田原攻めに参陣した南部信直は豊臣秀吉より「南部内七郡」 (糠部、鹿角、岩手、志和、閉伊、久慈、遠野)の領有を認められる。 翌年、九戸合戦平定後、和賀郡と稗貫郡が加増され、南部領は伊達領と 境を接することになる。 1634年 糠部郡は北郡(青森下北)、三戸郡、二戸郡、九戸郡の4郡に 分けられる。 <江戸時代> <幕末~明治維新> 南部利祥(としなが):南部家42代 <藩から県へ>
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